教えのやさしい解説

大白法 500号
 
法 四 依(ほうしえ)
「法四依」とは、仏道修行をする上でよりどころとすべき四つの法をいいます。
 四つの法とは、『涅槃経(ねはんぎょう)』に、
「仏の所説の如(ごと)き、是(こ)の諸(もろもろ)の比丘(びく)、当(まさ)に四法(しほう)に依(よ)るべし。何等(なんら)かを四(し)となす。法に依って人(にん)に依らざれ、義に依って語(ご)に依らざれ、智に依って識(しき)に依らざれ、了義経(りょうぎきょう)に依って不了義経に依らざれ」
とあるように、一に依法不依人(えほうふえにん法に依って人に依らざれ)二に依義不依語(えぎふえご)義に依って語に依らざれ)、三に依智不依識(えちふえしき)智に依って識に依らざれ)、四に依了義経(えりょうぎきょう)不依不了義経(ふえふりょうぎきょう)了義経に依って不了義経に依らざれ)の四つをいいます。
 「依法不依人」とは、仏の説いた法そのものをよりどころとして、人によってはならないということです。仏法の勝劣浅深(せんじん)の判定は、釈尊が説いた経文を根本とすべきであり、他の人師・論師の所説を用(もち)いてはなりません。
 末法においては、大聖人が説かれた御書を根本とすることが大切です。しかし、『日興(にっこう)遺誡置文(ゆいかいおきもん)』に、
 「当(とう)門流に於(おい)ては御抄(ごしょう)を心肝(しんかん)に染(そ)め極理(ごくり)を師伝(しでん)して」(御書 一八八四頁)
とあるように、下種の妙法の極理は、御書を心肝に染め、血脈(けちみゃく)相伝(そうでん)の指南を拝することによって正しく信解(しんげ)することができるのです。したがって、血脈への信順こそ「依法(えほう)」の姿と言えましょう。
 「依義不依語」とは、仏説の実義・真義をよりどころとして、経文の表面上の語句(ごく)にとらわれてはならないということです。
 大聖人の仏法にあっては、御書の語句の表面的意味にとらわれるのではなく、血脈相伝の深義・意義をよりどころとして御書を拝すべきです。
 「依智不依識」とは、仏の真の智慧をよりどころとして、人の浅い知識によってはならないということです。
 大聖人の御仏意(ごぶっち)を信じ、血脈付法(ふほう)の御法主上人の御指南に信伏(しんぷく)随従(ずいじゅう)していくことが大切であり、己(おのれ)の我見や浅識(せんしき)によって仏の教えを推(お)し量(はか)ってはなりません。
 「依了義経不依不了義経」とは、仏の真実の経をよりどころとして、方便の諸経をよりどころとしてはならないということです。
 『守護(しゅご)国家論(こっかろん)』に、
 「問うて云はく、不了義経を捨てゝ了義経に就(つ)くとは、大円覚修多羅(しゅたら)了義経(中略)是(か)くの如き諸大乗経は皆(みな)了義経なり。依用(えゆう)と為(な)すべきや。答へて曰(いわ)く、了義・不了義は所対(しょたい)に随って不同なり」(御書 一二五頁)とあるように、了義・不了義は所対によって同じではありません。つまり、大小(だいしょう)相対すれば大乗経が了義経、小乗教は不了義経となり、権実(ごんじつ)相対すれば実経の法華経は了義経、権教(ごんきょう)の方便諸経は不了義経となります。法華経においても、本迹(ほんじゃく)相対すれば本門は了義経、迹門(しゃくもん)は不了義経です。そして、末法においては、内証の寿量品の法体(ほったい)である文底(もんてい)下種の南無妙法蓮華経こそ了義経であり、この妙法のみをよりどころとし、それ以外の教えによってはならないのです。 末法においては、本門戒壇の大御本尊を信じ奉り、御法主上人の御指南に随順(ずいじゅん)していく信心の中に「法四依」が具(そな)わっているのです。